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「ぶっきらぼうな人」と言われて

よく、エンジニアのコミュニケーションは怖い、と言われることがある。率直で、矛盾を許さず、必要なことだけを言う姿勢が、そのような印象をもたらすのではないかと思う。一方で、エンジニアとして6年ぐらいやってきたが、エンジニアの仕事は常に「何が問題かを明らかにする」「そのための最適な解決方法を考える」ことなので、そういう言い方になるのだろうな、と思う。


おれは最近、同僚から「いちいち会話の中の矛盾を指摘しないでほしい。矛盾なしで話をするのは無理だし、それに気づくのも会話の役割だから」ということを言われた。

しかし、おれとしては会話の中に矛盾や不明瞭な部分があると間違った前提で会話が進んでしまうので、それは避けたいと思っている。もっと言うと、矛盾に気づけるぐらい丁寧に話を聞いているし、そうやって何が課題なのかを明らかにしたいと思っている。おれも同僚も、お互いに話したいことがある。解決したい課題がある。それは同じはずなのに、ちょっとした言い方で上手くいかないことがある。


いわゆる「ぶっきらぼうな言い方」をする人がある。周りの人は「あの人はぶっきらぼうな人だけど、悪い人じゃないから」と言う。おれはそういう人がもったいないと思う。その人と初めて話した人は、みんなその人から威圧感を感じたりする。嫌われているんじゃないかという印象を持ったりする。そしてそのたびに、周りの人は「そういう人じゃないんだよ」とたしなめたりする。みんな大変だ。

だけど、今回初めて「ぶっきらぼうな人」の側に回ったことで、おれはそういう人の気持ちが理解できた。「ぶっきらぼうな人」は、別に人が嫌いなわけじゃない。コミュニケーションが苦手なわけでもない。ただ、その人に出来る一番丁寧な言い方をしていて、それが伝わらないだけだ。


おれは、どんなときも自分に出来る一番丁寧なコミュニケーションをしているつもりだ。そして、丁寧に話しているのだから、相手にその気持ちが伝わっていると思っている。

でも、そうじゃないこともある。おれにとって丁寧だと思っている「問題を明らかにする行為」が、相手にとっては「問題があったことを責めている」ように捉えられたりすることもある。相手は「責められている」と思っているので、「人を責めるようなことをするときはもっと気を遣って!」と言ってくるけど、おれにとってはただただ丁寧にしているだけなのだ。


相手をおもんばかって、表現の仕方を変えられればそれがベストだ。でも、いつもそう出来るかと言われると、そんなことはない。それに、おもんばかったからと言って、それがいつも伝わらるとは限らない。おじさんが若者に合わせて話そうとして「若者にフランクに接したら、ウザい、セクハラだと言われた」なんて、どこででも聞く話じゃないか。

だから、結局やらないといけないのは表現の仕方を変えることじゃなくて、相手を信頼することなんじゃないかと思うのだ。「攻撃的な言い方をしないで」と要求する代わりに、「この人は自分とコミュニケーションを取ろうとしている」と信じることが重要なんじゃないかと思う。

もちろん、受け手だけが疲弊しながら頑張る必要は無くて、話し手も受け手が意図を受け止めやすいように工夫しないといけないと思う。でも、どちらかだけが工夫するのはコミュニケーションじゃない。コミュニケーションは共同作業だから、お互いがお互いのことを考えないと成り立たない。


言葉は便利だが、同時に難しくもある。文化が違うならなおさらだ。Twitterを見てれば分かるが、同じ日本語を話しているからといって、同じ文化圏にいるとは限らない。結局、おれたちが共有しているのはほとんど語彙と文法ぐらいなんじゃないかなと思う。

コミュニケーションは言葉と言葉で成立することが多いけど、実際に交わさないといけないのは言葉じゃなくて人格なんじゃないかなと思うことがある。言葉を通して、お互いのことを理解するのをコミュニケーションのゴールにすると、もうちょっと世の中は上手く動くんじゃないかな、なんて思ったりはする。