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漫画とロジスティクスとFの話をします

Nreal AirとColeman インフィニティチェアで優勝出来る

最近知ったんだが、「〜〜で優勝できる」に相当する表現は英語だと "FTW(For the win)" になるらしい。つまりこの記事のタイトルは The combination of Nreal Air and Coleman Infinitiy Chair FTW になるだろう。英語で書く意味は特に無いが、仕事で英語のドキュメントをひたすら書いているので、英語のいいかんじのタイトルを考えるのがクセになってしまっている。

Nreal Air を買った

Nreal Airとコーヒー。これもやはり優勝できる。相関関係はない。

最近、Nreal Airというサングラス型のARデバイスを買った。40000円ぐらいで結構お高いのだが、ビックカメラのポイントがあったのでつい買ってしまった。というのは嘘で、ポイントは2000円しかなかった。純然たる衝動買いだ。最初はKikitoあたりで借りればいいかなと思ってたのだが、なんかレビュー見てたら普通に仕事用で使えそうな雰囲気があったので買ってしまった。

www.nreal.jp

Coleman インフィニティチェア

Coleman インフィニティチェアで仕事をするtsuemura氏
Coleman インフィニティチェアで仕事をするtsuemura氏

ところで、タイトルにもあるColemanのインフィニティチェアはこれもまたすごく良いアイテムで、平たく言うとものすごく折り畳めるしものすごくリクライニングできるキャンプチェアだ。しかし、キャンプ用品に位置づけられてはいるものの、とてつもなく重い&かさばるで、キャンプ用品としての運用はしていない人が多いと思われる。もっぱら自宅でリラックスする運用をしている人が多いだろう。

自分はチェアの肘置きのところに台を置いてリクライニングしながら仕事していたのだが、ディスプレイを見ようとすると首が下を向いてしまって酷い首コリになってしまい、結局しばらく仕事用には使っていなかったのだ。

ec.coleman.co.jp

貴重な優勝シーン

Nreal Airをつけると目線を無理にラップトップのディスプレイに合わせなくていい

ここでNreal Airの登場である。自撮りしている&サングラスをかけてる関係で微妙に分かりにくいかもしれないが、ディスプレイの方を見ず、虚空を見ているのが分かるだろうか。この状態で、目線の先にディスプレイが投影されている。

目線を無理にディスプレイに合わせなくても、常に正面にディスプレイが投影されている状態なので無理がない。プロジェクターで天井付近に画面を投影しているイメージと言えば分かりやすいだろうか。ラップトップ側のディスプレイをミラーリングして使っているので、ラップトップ側は逆に何も映していない(輝度を最低にしているだけ)。

また、まだβ版でちょこちょこ不具合に当たるのであまり使うことはないが、M1 Mac用の "Nebula for Mac" というARソフトがある。これを使うと画面の数を3枚に増やしたり、画面の大きさや遠さを調整できる。

Nreal Airの良さ

ディスプレイの物理的な制約が無くなったのが非常に大きい。ディスプレイアームを用意したりしなくても適切な位置にディスプレイがある。外出先で使ったことはないが(多分今後も使うことはないだろう、目立つし)、新幹線の中など限られたスペースでカチャカチャやりたいときに便利だと思う。

おれはデスクで作業するのが苦手で、最近自宅の作業机を同僚に売ってしまった。それ以来自宅の適当なところにちゃぶ台を置いたり、あぐらをかいて足の上にクッションを置き、その上にラップトップを置いたりしていたのだが、どれもやはり首が疲れる。ラップトップデバイスの構造上、キーボードの位置とディスプレイの位置は常にトレードオフになる。Nreal Airはこれを解消する。

そして、上述のようにインフィニティチェアとの相性が最高である。これなしでは生きられなくなってしまった。

Nreal Airの良くなさ

Zoomなどを使ったオンライン会議では画角が大変なことになる。相手にも当然失礼なので、会議中は基本使わないようにしている。まあ、ラップトップのディスプレイを使うだけなので別に大した問題ではない。

Zoom会議でこういう画角になる。知人から「難病患者のようだ」と言われた

画質はそこそこ。それなり。Retinaと比べると全然足りないし、6と8の区別が難しかったり、ダークモードになると致命的に見えない。もともとライトモード派なのであまり違和感はなかったが、開発者向けツールはみんなデフォルトでダークモードになっていることが多いので辛いときがある。このへんはAR/MRデバイスあるあるというか、現実世界の背景が透過されてるのが問題なので、付属の目隠しで完全に覆ってしまえばなんとかなる場面も多い。あと、前述のARソフト "Nebula for Mac" を使うと画面が拡大できるので、画質の問題はかなり改善される。

有線デバイスなのでちょっとケーブルの取り回しが不便なことがあるのだが、無線にして遅延がひどくなったり画質が悪くなったりするよりは圧倒的にマシなので、ここは割り切っている。延長ケーブルを買うぐらいはしてもいいかもしれない。

総評

買ってよかった。もう一つ、Grabshellというコントローラー型のキーボードを予約しているので、これが届いたら完全に机が要らなくなる。もっと優勝させてほしい。

grabshell.io

商業的成功はプロダクトの質が支え、プロダクトの質は技術者の成長が支える

学生のころの話だが、おれは自転車の空気が抜けやすいことに悩んでいた。当時バイト先まで電車で2駅、自転車だと20分くらいで着くような距離感で、交通費を浮かすために自転車通勤していたのだが1、バイト先に向かうときにはパンパンだったタイヤが、帰る頃にはベコベコになっているのだ。冬の寒い中、歩いて1時間近くかけて自転車を押して帰ったのを良く覚えている。これほどまでに鮮烈に覚えているのは、一度だけでなく二度三度同じ現象に悩まされていたからだろう。

タイヤのパンクを疑って自転車屋に持っていった。個人でずっと長く続けているような、古ぼけた、廃倉庫のような見た目の自転車屋だったが、なにしろ家から一番近かったのだ。店の奥に声を掛けると、ランニングシャツと短パン姿の老人が面倒くさそうに出てきた。彼は手際よく自転車のチューブを外して、水を張ったタライにチューブを浸し、空気の漏れをチェックした。そして、「どこもパンクしてないよ。誰かにイタズラで抜かれたんじゃない?はい、チェック料1000円ちょうだい」と言った。おれはしぶしぶ1000円払った。当時おれは時給800円で働いていたので、この1000円には、おれの1.25時間分の価値があった。

冒頭で書いたが、この現象は一度ではなく二度三度繰り返し起きていた。もしこれがイタズラだったとしたら、おれがバイト中に繰り返し同じイタズラを受けていることになり、さすがに考えにくい。

ダメ元で父に相談した。父は学生時代に自転車で日本一周したことがあるらしく、自転車のメンテナンスにもある程度詳しい。父は自転車のチューブには主に仏式・米式・英式の3種類があることを説明し、おれの自転車に英式が使われていることを教えてくれた。そして、いまおれの自転車に起きている不具合が「スロー・パンク」という事象であることと、英式チューブでは「虫ゴム」というパーツの劣化によってこの現象が起きやすく、交換用の虫ゴムを自転車屋やホームセンターなどで購入してはどうかとアドバイスしてくれた。

件の自転車屋にはあまり行きたくなかったので(虫ゴムなるものが店頭にあるかどうか不安だったし、何より印象があまり良くなかった)、おれはホームセンターの自転車コーナーで虫ゴムを買い、自分で取り付けた。それから、スロー・パンクは二度と起きなかった。

この出来事はもう20年以上前の話だ。だが、それ以来ずっとおれの頭の片隅に置かれていて、一度として忘れたことはない。それは、この疑問の答えがずっと出せていないからだ……なぜ、あの自転車屋は虫ゴムのトラブルに気づかなかったのだろうか?なぜ、メンテナンスのプロでも何でもない元ホビーサイクリストの父はすぐに気づいたのだろうか?


あれから20年、おれは引き続き自転車に乗っている。どこに注油すべきでどこに注油すべきでないかを良く知っている2。どの程度の空気圧が自分の自転車にとって適切なのかを良く知っている。ガタツキやパンク、ブレーキワイヤーの緩みなどのトラブルについて、典型的な原因とそれに対する対応方法を良く知っている。自転車の分解方法と再組み立ての方法を良く知っている。一方で、プロに任せたほうが良い部分があることも良く知っている。例えば、自転車のホイールはスポークのテンションを適切にバランス良く調整しなければならないため、熟練の業が必要とされる。他にも、専用の工具が必要なものについては自転車屋さんに任せることも多い。例えば、チェーンの交換や、ハンドルの切断にはチェーンカッターやパイプカッターなどの工具が必要なので、そうしたことは自転車屋さんにお願いしている。しかし、ホイール組みにせよチェーン交換にせよ、もしそれを本当に自分でやりたくなったらそうするだろう。つまり、自分の手でもっと乗り心地を追求したくなったならば、自分でやるのが一番の近道なのだ。

おれは趣味で自転車に乗っている。仕事でメンテナンスをしているわけではないので、時間が許す限りいくらでもメンテナンスに費やすことができる。自分の自転車の乗り心地に、多くの金と時間を費やしているのだ。同時にそれは自分の技術的成長に繋がる。

かたや、虫ゴムの劣化に気づかなかった自転車屋は、当然ビジネスとして自転車屋を営んでいる。例えば、組み立て済みの自転車の販売や、防犯登録の事務手数料、そしてパンク修理などのメンテナンスで収益を得ている。仮に自分自身に時給2,000円を支払っていたとしたら、パンク修理1件1,000円で利益を出せるのは、それが30分以内に解決した場合だろう。だから彼はあれほど鮮やかな手際でタイヤからチューブを外し、パンクの有無をチェックしたのだ。10分もかからなかったのではないかと思う。そして、彼は「パンクしていない」という事実を顧客に返し、その対価として1,000円を受け取った。純利益率では70%程度になる。

ここで問題になるのは、当然 顧客の問題は解決していない ということだ。あの自転車屋は虫ゴムのトラブルに気づかなかった。それが彼の無知によるものなのか、ミスによるものなのか、それとも何らかのビジネス上の判断によるものかはわからない。だが、結果としておれ=顧客は 問題が解決しなかったことに対して1,000円を支払った


おれは一人のホビーサイクリストとして自転車のメンテナンスを学んだ結果、虫ゴムの劣化も含めた一般的なメンテナンスの知識を得た。また、それによって乗り心地の良い自転車を得た。ただし、この成果を得るまでにはそれなりの時間を費やした。それはおれが自分の自転車のメンテナンスを自分のためだけにしていて、ビジネスとして対価を得る手段として扱っていないからだと思う。言い換えれば、おれは自分の自転車の乗り心地を良くするために手段を選ばないし、そのための労力を惜しまない。そして、その過程でおれの自転車メンテナンスの技術は向上し、更におれの自転車の乗り心地は良くなる。おれは 学習し、成長する 。それを反映させるかのように、おれの自転車の質は高まる。

しかし、もしおれがプロとしてサイクルショップをオープンすることになったら、おれの持つ様々な技術は、自分自身ではなく 顧客のため および 利益のため に使われることになるだろう。

もし利益を追求するなら、おれは出来るだけ素早く顧客の求めるものを提供するべきだ。例えば、おれがパンク修理を依頼したあの自転車屋のように。繰り返すが、あの自転車屋の腕は確かだった……慣れていない人間にとっては、自転車のチューブを取り外したり、どこがパンクしているかを調べたりするのは一苦労なのだ。だが、あの自転車屋は難なくそれをやり遂げた。つまり、パンク修理をしてほしいという依頼に対して、あの自転車屋はものの10分かそこらで回答を出したのだ。「パンクしてないですよ」という回答を。

しかし、それは 顧客のため にはなっていない。もし彼がパンク = チューブに穴が空いている状態だけでなく、虫ゴムの劣化という別の事象に対して思い至ったならば、彼は恐らくおれの父がやったようなアドバイスをしたり、倉庫から虫ゴムを出してきて付け替えてみたりしてくれただろう。もし彼が虫ゴムの劣化に思い至らなかったり、あるいはそういう事象があることを全然知らなかったとしても、仮に顧客たるおれの言い分にもう少しでも耳を傾けていれば、「イタズラされたんじゃないの」などと断ずることなく、もっと良くそのチューブのことを調べたかもしれない。そして、顧客の要求に関わらず、 顧客が本当に求めていたもの = 空気が漏れない自転車 を提供出来たはずだ。


これらのことから、おれは技術者としての成長と商業的な成功、そして利用者に与える価値の質について以下のような事柄を考えている。

まず、おれは自分が乗る自転車のメンテナンスを自ら行うことで、自転車のメンテナンス技術について成熟した。また、自分のメンテナンス技術の向上により、自分が乗る自転車の乗り心地、つまり が向上した。自分自身が利用者である限り、この2つは常に相関関係にある。

しかし、技術者として誰かの自転車のメンテナンスをするなら、そこには何らかの対価が発生する(ボランティアでない限りは)。ここで 商業的な成功 という要素が新たに導入される。つまり、我々は顧客の要求を、得られる対価に対して小さなコストで解決する必要がある。そうしない限り、我々は利益を得る事ができず、日々の衣食住に事欠くことになる。

これはジレンマ、あるいはトリレンマだ。技術者としての成長は、自転車の質を高める過程で得られる。逆に言えば、自転車の質を高めるのではなく、単に求められた技術をサービスとして提供するだけでは、技術者としての成長は得られない。しかし、高い利益を生み、商業的成功に繋げるためには、技術者としての成長を捨て、今持っている技術だけを提供するのが最も手っ取り早い。しかし、技術者として成長しなければ(つまり、例えば業務を通じて虫ゴムのトラブルについて知る機会がなければ)、顧客の課題を解決できず、低品質のサービスしか提供できない可能性がある。

逆に言えば、商業的な成功はとりあえず後回しにして、業務の中で技術者として成長する機会を得て、顧客に質の高いサービスやプロダクトを提供出来たならば、その後で商業的な成功を得る可能性もあるだろう。つまり、商業的な成功を後回しにする=技術者としての成長に投資することが出来たならば、その後利用者が受け取る価値の質は高まり、より大きな対価を得られる可能性もあるのだ。


今、おれはソフトウェアエンジニアとして働いている。入社したばかりのときはRuby on RailsやReactのコードを読むのにも一苦労したものだが、今ではスラスラと読み書きできる。現職ではSeleniumやAppiumなどのオートメーション技術を駆使するので、それらに対する知識もある。これは、現職がおれの技術的成長に充分に投資した結果だ。より正確に言えば、短期的な利益を求める代わりに、おれが顧客の要求に充分に耳を傾け、技術的にその課題を解決するのに労力を費やすことを認めてくれたからだ。そしてその結果、おれ(たち)は顧客への技術的サポートやプロダクトの改善を通して、顧客により価値の高いサービスとプロダクトを提供できる。これは将来的に会社のより大きな商業的成功に繋がると確信している。

どのような形であれ、質の高いサービスを提供したり、質の高いプロダクトを作るには、技術者の成長に対する投資が必要不可欠だ。そして、それは商業的成功に繋がる。順序が逆になる、つまり商業的成功を技術者の成長よりも優先してしまうと、質の低いプロダクトやサービスに繋がり、顧客の要求を充分に満たせず、結果的に商業的成功を満たせないことになる。

技術者としての成長と商業的成功は得てして二項対立となる。つまり、技術者の成長に投資をするならば、(一時的には)商業的成功には繋がらないというものだ。しかし、ここに利用者が受け取る価値の質、具体的にはサービスやプロダクトの質を絡めて考えると、この3つは相関関係となり、良いサイクルを生み出せるかもしれない(もちろん、質の高いプロダクトを顧客が求めている、という前提付きではあるが)。


これまでの話を、冒頭の自転車屋で改めて例えてみよう。

継続してプロダクトやサービスを提供し続けるには商業的利益の追求が必要だ。自転車屋で例えれば、自転車が売れなかったり、メンテナンス依頼が来なければ、廃業に繋がる。提供する技術の対価として収入を受け取り、それによって利益を出す必要がある。

そして、商業的利益を追求するには、質の高いプロダクトやサービスが必要になる。なぜなら、それらの質が低いままでは、顧客の問題を解決せずに対価を受け取る可能性が高く、リピートに繋がらないからだ。自転車屋で例えれば、虫ゴムのトラブルに気づかない店員のいる自転車屋は、問題を解決できずリピーターを失う。逆に、顧客が何を要求しているかに関わらず、彼らの抱える本質的な問題を解決できれば、その顧客はリピーターになる可能性がある。

そして、質の高いものを継続的に提供しつづけるには、技術者やサービサーとしての成長が必要不可欠だ。あの自転車屋は虫ゴムのトラブルに気づかなかった。憶測でしかないが、彼は業務を通じて虫ゴムのトラブルに気づく機会が無かったのかもしれない。彼が時間をかけて顧客の問題に取り組み解決に導けるようにすれば、彼らは業務を通じて技術的に成長し、次からは似たような問題をより素早く解決できるようになるだろう。

重ねて言うが、もしこれが趣味の自転車いじりであれば何も気にすることはない。おれは自分の自転車の乗り心地に投資すると同時に、自分のメンテナンス技術に投資する。この時、質(乗り心地)と技術は一つのサイクルの中にあり、相関しあっている。

だが、技術を対価に商業的利益を得るのなら、商業的利益もそのサイクルの中に組み入れる必要がある。商業的利益が導入された瞬間に質が犠牲になるようなことがあれば、そのビジネスの寿命は長くないだろう。なぜなら、技術の向上と相関関係にあるのは質であり、商業的利益ではないからだ。言い換えれば、技術者としての成長はプロダクトの質を支え、プロダクトの質は商業的な成功を支える


ところで、もちろんこのブログは『禅とオートバイ修理技術』にインスパイアされて書かれている。未読の方はこっちのほうが断然面白いので読んでみてほしい。

1 会社に申告しているのと違う手段で通勤し、立替え交通費を受給する行為は発覚した際に差額分の請求を受けるリスクがあるばかりか、通勤中の自己が労働災害として認められないケースもあるので、絶対にやめたほうがいい

2 グリースが流れ出る恐れがあるので、注油が禁忌とされているパーツがあるのだ。例えばペダルの付け根の部分など。もちろん、ブレーキなど摩擦によって機能を発揮するものについても当然潤滑油は付けるべきではない

ブリリアント・ジャークと戦う秘訣

TL;DR

戦うな。仲良くなれ。

ブリリアント・ジャークとは

ググれば出てくるだろうし、ググらなくても日に3回はTLに挙がってくるのでまあ知らない人も居ないだろうが、要するに職場に一人はいる「仕事は出来るがイヤなやつ」のことを言う(らしい)。Netflixの組織論の本に書いてあったという話を聞いた。まあ、ここまで読んで察してほしいが、要するにおれはこの言葉についてノーアイデアだ。定義を気にする人はここでこの記事を読むのを止めてもらいたい。

イヤなやつについて

人間なら誰しも嫌いなやつの一人や二人いるだろうし、何気ない一言に傷つけられたこともあるだろう。コミュニケーションは難しい。何しろおれたちは言語という途方もなく曖昧で暗黙的なものに依存してコミュニケーションしている。明示的?いや、暗黙的だ。

唐揚げ。

いまどんな形を連想した?断言するが、唐揚げと言われて同じ形を連想できる人間は居ない。唐揚げは不定形で、衣の付き方によって形が変わる。にもかかわらず、おれたちは唐揚げが同じものを指すと思っている。これはある種の共同幻想だ。

例えばおまえが「このハゲ」と言われたとしよう。お前は内心こう思うはずだ。「なぜこいつはおれの10円ハゲを知ってる?隠していたはずなのに。いや、仮に知らなかったとして、おれをハゲ呼ばわりする筋合いは無いだろ?なんて嫌なヤツなんだこいつは、ヤな奴ヤな奴ヤな奴!」

だが、お前をハゲ呼ばわりしたやつはおまえの10円ハゲのことなんかに気づいていない。それどころか、お前に好感を持っている。気さくなコミュニケーションのつもりで「ハゲ」と呼んでいる。つまり、お前とその「イヤなやつ」の間には「ハゲ」という言葉の意味においてディスコミュニケーションがある。

おまえは上司にこのことを密告することができる。「あいつにハゲって言われました、すごく傷つきました」。上司は優秀な部下であるお前を守るために行動するだろう。そしてその「イヤなやつ」は「はあ、すいません。うちの地方ではハゲって言うたらまあちょっとポカやらかした人のことを指すもんですから」。

おめでとう、お前はもうハゲ呼ばわりされることは無いだろう。満足か?

ディスコミュニケーション

ところで、おれは過去にハラスメント行為を直接注意されたことがある。同僚を理詰めにしたのだ。「なんでそう考えるんですか?」「それとこれって矛盾してませんか?」こう聞き続けたところ、それをロジハラ(ロジックハラスメントの略らしい)だと当人から文句を言われた。

はっきり言って心外だった。おれがなぜその同僚を理詰めにしたかといえば、その同僚が何を言ってるかさっぱり分からなかったからだ。別に嫌いなやつなら「あ、そうですか、はい」で終いだ。だがおれはその同僚のことをよく理解したかった。だから聞いたのだ。聞いただけなのだ。そいつの考えを理解するために、ベストな質問を考えて、聞いたのだ。言い換えれば、おれはその同僚をリスペクトしているからこそ、考えを理解したくてそうしているのだ。それに、質問が誰かを傷つけるなんて思ってもいなかった。

「先生、質問があります」と言って「なんで質問があるんだ!おれの授業が分かりにくいっていうのか!」と怒り出す先生をおれは見たことがない(まあ、いるかもしれんが)。同じように、Akinatorに「なんでそんなに質問してくるんだ!」とキレ散らかすやつを見たこともない。だが、おれたちの間ではそれが起きた。で、おれはその同僚に伝えた。「おれが質問するのは、お前の考え方を理解したくてしてるのであって、お前を傷つけたり追い詰めたりするためじゃない。そこだけは理解してくれ」と。これはどうやら効果があったようで、納得してくれたし、それからのコミュニケーションはスムーズに進んだと思う。

発話と、その受け取り方について

おい、そこのハゲ。聞こえてるかハゲ?頭髪だけじゃなく耳も不自由なのか?

別に読者を罵倒したくて記事を書いてるわけじゃないんだが、説明のためなのでそこは分かって欲しい。

いずれにせよ、おれに悪意はなかった。ハゲ呼ばわりしたのは、ひとえにおまえと仲良くなりたかったからだ。コミュニケーションにクセがあるのは認める。だがおれはおまえと仲良くなりたかったし、こういうことを言っても良い間柄だと思ってたんだ。お前がそこまで怒るとは思ってなかった。悪かった。二度としないよ。

こう言われれば、まあ納得はしないまでも、そいつのことを理解できたと思うんじゃないか?嫌な気持ちも薄れるんじゃないか?

……ブリリアント・ジャークなんて呼ばれるような奴が仮にいたとする。そいつがどんな嫌なことを言ったとしても、その言葉がお前を傷つけたりする意図で放たれたとは限らない。そいつはただ、自分の正しいと思うことを主張しただけかもしれない。言うべきことを言っただけかもしれない。お前と仲良くなりたかったのかもしれない。ただ不器用なだけなのかもしれない。で、お前はそいつに「ブリリアント・ジャーク」とレッテルを貼って、それで終わりにするのか?そいつは仕事が出来るし、良いやつかもしれないのに?

ブリリアント・ジャークは組織に必要ない」なんて言ってのけるのは、ジャイアンをいじめっ子だと断罪して転校させるようなもんだ。映画版を見れば、あいつが情に厚い真の男だということが分かるはずだが、その学校は劇ドラを見ずにジャイアンを理解したつもりでいる。ジャイアンの居ないドラえもんが面白いか?バイキンマンの居ないアンパンマンが面白いか?

言葉はただの言葉だ。その後ろに何を感じるかはお前の問題だ。大事なのは、そいつを排斥することじゃなく、理解して、仲良くなることだ。違うか?

心の燃料が切れてしまったときのこと

夜9時に子供と布団に入り、読み聞かせ(大抵は子供が勝手に読んでる)をしながら9時半ぐらいには眠りにつく。浅い眠りの中、夢の中でも仕事のことを考えている。同僚と議論したり、コードを書いたりしている。そして、何かの結論に達した時、「これだ!」と思い目覚める。時計を見るとまだ真夜中、時には日付が変わってないような日もある。そのままPCを開き、ドキュメントを書いたり、Slackに返信したり、コードを書いたりする。明け方になって、少し眠くなり、仮眠する。目が覚めて、朝食を取り、子供を保育園に連れていき、帰宅してそのまま仕事を続ける。同僚から「いつ寝てるんですか?」なんて言われて、笑ってごまかす。

おれは仕事が楽しかった。楽しくてしょうがなかった。どんなに辛くても楽しかった。解くべき問題がある限り働けると思っていた。そして解くべき問題が無くなることはないから、無限に働き続けられると思っていた。

ある晩、いつものように目が覚めた。時計を見るとたしか深夜1時ぐらいだったと思う。なぜかその晩は仕事をする気になれず、どうしようもないのでKindleを開いて、『ザ・ファブル』を途中まで読んだ。明け方になっても眠れず、そのまま朝食を取り、いつものように9時から仕事を始めた。その日は仕事がなんだか捗らなくて、ミーティングとミーティングの間に長めの休憩を取ったりした。ほぼ徹夜に近い状態だったのもあり、その日はちゃんと眠れた。

次第に、眠れない夜が増えていった。眠れる日と眠れない日が交互に続くようになった。何をする気にもなれず、夜の街を散歩するようになった。1時間ぐらいその辺りを歩いた。深夜営業のファミレスを探したが、コロナ禍でどこも夜11時には閉店していた。タクシーの運ちゃんたちに混じって、夜中にしか開かない立ち食いそば屋でかき揚げそばをすする日もあった。深夜まで受け付けているマッサージ屋に入って肩甲骨の内側を押してもらった日もあった。どの店も空いていなくて、ただぶらぶらしているだけの日もあった。帰ってきてもすぐに眠れるわけじゃなく、ソファに横になって、音楽を聞いたりして、うとうとしてから布団に入った。

やる気が無いわけじゃない。仕事は相変わらず忙しいし、何より楽しい。ただ、捗らない。活力に溢れていた夜が、ふと孤独でさみしい夜に変わった。昼寝の時間は次第に増していき、ミーティングを寝過ごしてしまうこともあった。最初のうちは「ヤクルト1000で快眠できるなんてウソじゃん、やっぱインターネットはうそつきだ」なんてうそぶいていたけど、気がつけば毎晩「今夜は眠れるだろうか」ということで頭がいっぱいになっている自分がいた。


最初に病院に行くことを勧めてくれたのは妻だった。状況を知っている友人や同僚も後押ししてくれた。近所のメンタルクリニックのメールフォームで予約をして、簡単な診察の後、薬を出してもらった。おくすり手帳には「心を落ち着かせるお薬です」「意欲を改善するお薬です」と書いてあった。

薬はてきめんに効き、おれはまた眠れるようになった。仕事も捗るようになった。そしてその時初めて、おれが「意欲を失って」いて、「意欲を改善するお薬」でそれを取り戻したことに気づいた。不眠は、おれが抱えていた問題の一つの側面でしかなかった。意欲を取り戻した瞬間、自分がいかに色んなことが出来ていなかったかに気づいた。

料理のレパートリーが、いつのまにか冷やし中華とうどんの繰り返しになっていたことに気づいた。やる気を出そうと買った自己啓発本や技術書に一つも手をつけていなかったことに気づいた。TwitterYoutubeをダラダラ見る時間が多かったのに気づいた。子供と丁寧に話すことを忘れて、怒鳴りつけて言うことを聞かせていたことに気づいた。頭を使う仕事や、面倒な仕事から目を背けていたことに気づいた。

薬が全てを取り戻してくれた。地道で面倒な仕事や、タフで頭を使う仕事に再び向き合えるようになった。仕事の息抜きに料理や掃除をし、代わりにTwitterを開く時間が減った。子供の気持ちに寄り添って、一緒に物事を考える機会が増えた。仕事が、人生が本当に楽しいと思えるようになった。


調子が良いときも悪いときも、おれの頭は考えることを止めなかった。楽しいときも、大変なときも、いつだって何かを考えていた。寝ているときも、起きているときも、ずっと考えている。たくさん考えれば、いい結論が出る。たくさん働けば、たくさん成果が出せる。夜中に仕事をすれば、その分仕事が進む。頭がその快感を覚えている。

ガソリンが切れた車のアクセルをずっと踏んでいる、ふとそんな情景が頭に浮かんだ。心は前に進もうとしているけど、エンジンはかからない。アクセルを踏めども踏めども、進むことも、戻ることもない。眠れなくなったのは、たぶんそういうことだったんだろうなと思った。考えることは止めないけど、考えるための燃料が無かった。


眠れなくなって、いろんなことを学んだ。眠れない日の過ごし方を知った。心に「燃料」があることを知った。それはもしものときには薬で入れられるものだと知った。おれが無限だと思っていたものは、無限ではなかった。ゆっくりゆっくり、大事に燃やさないと、途絶えてしまうものだった。

ある晩、また昔のように、夜中に仕事の夢を見て目が覚めた。パソコンはもう開かなかった。代わりに、コップ一杯の水を飲んで、ストレッチをして、ヘッドホンで静かな音楽を聞いて、落ち着いてから寝た。

もしかしたら、夢の中で思いついた良いアイディアを忘れてしまうかもしれないが、大抵そういうのは起きてまとめてみると大したことないものだし、そのうちいつかまた思い出すだろう。そう思うことにしている。


眠れず夜中に歩き回っていた時、Spotifyの『眠れぬ夜の音楽』というプレイリストを良く聴いていた。普段あまり聴かない曲ばかりだった。

その中に、KIRINJIの『エイリアンズ』と、奇妙礼太郎の『Life is beautiful』があった。この2曲は今でもおれのお気に入りだ。

眠れなかった日々は、辛かったが、悪いことだけじゃなかった。こういうのも人生の一部なんだろう。35歳の夏、おれは眠れない日の過ごし方と、心の燃料のことを学び、好きな曲が増えた。

ヤクルト1000でも寝れない

もともと若干不眠や早朝覚醒の気があったのだが、そうは言っても寝不足の日の夜はちゃんと眠くなるし、毎晩全く寝れないみたいな感じではなかった。

ヤクルト1000には毎日すこやかに眠れるのを期待していたのだが、どうも飲んで寝るとすぐ目が覚めてしまう気がする。お腹が痛くて気持ち悪い時の症状から苦痛だけを取り除いた、ぼんやり苦しく、目がチカチカする感じが夜中じゅう続く。変な夢を見ることもあれば、エアコンの小さなLEDの中に引っかき傷のような、文字のようなものを見るときもある。

夜は毎日10時には布団に入っている。その後、深夜2時ぐらい、ひどいときには12時ぐらいに目が覚めてしまい、そこから眠れなくなる。しょうがないので最近は散歩に出ている。このご時世、深夜までやっているのはコンビニとドン・キホーテぐらいで、ファミレスのたぐいは全滅。マックも店によっては空いているが、深夜帯はテイクアウトのみのこともある。

いかにも辛そうな感じで書いたが、日中に強い眠気を感じるわけでもなく、実のところ「わあい深夜の散歩、tsuemura深夜の散歩だいすき」ぐらいの感じで生きている。

中学か高校ぐらいの時、同じように夜中に起きてしまった友達と深夜のゲームセンターに行ってIIDXをやったのを思い出したりしていた。もう一度やりたくて、試しにラウンドワンに行ってみたが、アミューズメントコーナーは12時までで終わりで、ちょっと残念。

仕事しながらウォーキングできるやつ買った

現在のデスク。汚くてごめん

子供が小学校に上がって、保育園時代のように送り迎えが発生しなくなり、一日の歩数が1000歩ぐらいになってしまった。左手首に鎮座しているGarminのトラッカーも完全にモバイルSuica専用機と成り果てている。

なんとなく、デスク下にウォーキングマシンがあればビルド待ちの時間とかに便利なんじゃないかと思い買ってみた。一般的なランニングマシンは手すりが付いていてデスク下には置けないのだが、これは手すりがない。その代わり、ウォーキング向けに時速が遅めに設定されている。

www.amazon.co.jp

試してみたが、デフォルトの3km/hでもかなりキツい。4km/hにするとほぼ走る姿勢になってしまう。仕事中に使うには3km/hぐらいが限度な気がする。マシンとしての最高速度は6km/hなので、かなり余裕があって安心。ちなみに時速は0.5km/h単位で設定できる。

音は思ったより出る。うるさい家電の代表格としては掃除機と食洗機だが(おれ調べ)、それらよりは静かだと思う。リモコン操作の時のピッ、ピッという音がちょっと耳障りかもしれない。オフに出来ると嬉しいんだが。

(この記事はソファでゴロゴロしながら10分で書いた)

23区に住んでるけど車を買った

2022年4月末に車を買った。初期費用・ランニングコストともになかなか厳しいものがあるが、端的に「生活が変わる」レベルの変化なので、買ってよかったと思う。

経緯

子供が1歳ぐらいの時に電動自転車を買った。それまで行けなかったところに行けるようになり、行動範囲が広がった。まだ行ったことのない公園を探しに行ったりした。

それから5年が経って、ついに自転車の後ろに載せられなくなってしまった。シートベルトが締まらない。子供も自転車に乗れるようになったので、一緒にサイクリングしても良いのだが、まだ大人の足に比べると貧弱で、フラフラ走るので危ない。おまけに、家族3人に対して自転車は2つしかないので、家族でお出かけするのが大変になってしまった。

最初は電動トゥクトゥク を買おうかと思ってたのだが、そこそこ値が張るし、冷暖房も安全装備もついてない。それなら軽自動車でも買えばよいんじゃないかということになった。

買った車

ホンダ N-BOX の2019年のモデル。7000kmしか走っておらず状態が良いものを買った。諸費用込みで総額で150万円ぐらいになってしまった。トゥクトゥクと比べると倍近い出費だ。

全長が短く小回りが効くので車庫入れがとても楽。マンションの駐車場がとても狭い道に面していて、おまけにかなり邪魔な位置に電柱があるのだが、それでもなんとかなっている。

社内は広く作ってあるので買い物も楽になるだろうと思ったが、ベッドなど長物の運搬はさすがに苦労する。イケアでベッドを買ったのだが、3人家族+ベッドはかなりギリギリだった。助手席を限界まで前に出してなんとか収まる感じ。助手席は折り畳めるので、同乗者が少なければ問題なく積めるはずではある。

維持費

駐車場代が2万円/月。車の月々のローンより高い。これに加えて保険料が月8000円ぐらいかかる。トータルで月々の出費が5万円ぐらい増える形になってしまった。ボーナス払いもあるのでなかなか痛い。

良かったこと

生活が車中心になった。いままで「車が無いから行けないなー」と思っていたところに行けるようになり、世界が広がった感じがする。これまでは電車とバスの路線だけが道だった。今は道路というとてつもなく長大な交通網が利用できる。どこにでも行ける。

都内は確かに公共交通機関が発達しているけど、一方でそれは「公共交通機関で行けるところにしか行けない」という縛りでもあった。おれは板橋区に住んでいるのだが、隣の練馬区や埼玉方面に行くには電車とバスを乗り継いでいく必要があり、近くて遠い存在だった。

あと、意外と自分は車の運転が好きだということが分かった。リモートワークの気分転換にその辺をぶらぶらドライブするとかなり気分がクリアになる。ボケ防止で車を運転する高齢者の気持ちがちょっと分かった。

車で15分ぐらいのところのコメダ珈琲までドライブして、コーヒー飲みながら仕事するのも楽しい。出来ればオフィスにも車通勤したいのだが、駐車場が無いのでまだ試していない(周辺のコインパーキングは4000円/日ぐらいする)。

カーシェアでいいんじゃない?

最寄りのカーシェアまでは徒歩5分強なので、まあカーシェアでも良い。それはそう。駐車場代かからないし、使わなければ請求されない。でも、玄関から1分以内で乗れて、面倒な予約も不要、チャイルドシートや暇つぶしの雑誌も置いてあって、降りる時にゴミを片付けなくてもいい、というのはとても良い。

カーシェアだと、日常の買い物に使う気にはさすがになれない。都内はまいばすけっとみたいなミニスーパーが至るところにあるのでそんなに不便はしないのだが、やはり値段が高かったり、品揃えが微妙だったりする。自家用車があれば気軽に行きたいスーパーに行ける。オーケーで100グラム59円の鶏胸肉を買うのが楽しい。とは言え、結局自家用車の所有のために相応のコストを払っているわけなので、ほとんど自己満足の世界ではあるが。

あと、これまで自分はペーパードライバーだったので、レンタカーやカーシェアの類の利用に抵抗があった。万が一傷を付けたらものすごい額を請求されるのでは……と内心ビクビクしながら乗っていた。自家用車は遠慮なく乗れるので、そこのストレスは無くなった。

感想

月々の支払いがかなり厳しいが、それさえクリアすればかなり快適。新しい趣味を見つけたと思って割り切っている。夏のボーナスが230万円入ることを期待している。